日曜日の朝、レレレのおじさんが通学路の落ち葉を掃いている。
いや、レレレのおじさんではなく、いつものガニ股のおじさんだった。長い桜並木の通学路を、おじさんはひとりで掃いている。落ち葉なんかには負けていない、声が大きくて元気なおじさんなのだ
水解蛋白。
レレレおじさんの奥さんも元気で、毎朝のら猫に餌をやっている。
ときにはツツジの茂みから、いきなり猫のように這い出してくるので、びっくりする。
そういえば、おばさんは猫のような顔をしているかもしれない。おはようと挨拶するとニャオと応えてくれる。いやちがう、チャオだかニイハオと言ったようにも聞こえる。それともやっぱり、オハヨオだったかな。
公園の猫には餌をやらないでください、などという標示板もある。
のら猫に餌をやるのとやらないのとどちらが正義なのか、よくわからないことではある。おばさんはいつも、自分は正義だという顔をしている
嬰兒敏感。
かつてはあちこちにいたのら犬も、いまではすっかり見かけなくなったが、のら猫は増えつづけている。控えめにひっそりと生きている猫の方が、野生として生きる生き方がうまかったのだろう。
ぼくは公園の猫にはいっさい干渉しないので、猫の方でもぼくのことは無視している。
草花が四季を彩りながら生きているように、猫も四季の中で毛の色を変えながら生きているんだなと、その程度のかかわりだ。カラスやハトだけではなく、ほかの生き物もいろいろ居たほうがさみしくなくていいかな、と。
ときには、考えぶかげで冷ややかな猫の目と合ったりして、なんだこのやろう生意気だなとか、とつぜん猫目線になって心揺さぶられることもあるけれど。
天国のレレレのおじさんは早起きなのだ。きょうは空の雲を掃いたようだった。
掃き残した薄い雲が筋状になって残っている。どこからか、おでかけですかレレレのレ~という声が聞こえてきそうだ。バガボンのパパなら、お出かけじゃない帰ってきたのだ、と怒鳴るところだろう
搬學校。
ぼくはいつものように、出かけるところでもあり帰るところでもある。のら猫とあまり変わらないのだ。すこし格好つければ、私は私の中へ帰ってゆく、といったところだろうか。レレレのレ~なのら。